昭和49年06月22日 朝の御理解



 御神訓 一、「子を産むは わが力で産むとは思うな 皆親神の恵むところぞ。」
     一、「懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ。」
     一、「出産の時よかり物によかるより 神に心を任せよかれよ。」

 この三ヶ条を私共が解からせて頂いたら、素晴らしい事になると思うですね。これは出産の時だけの事ではありません。一切を産みなす原動力になる所です。人間の幸せの条件の言わば全てを産みなして行くこの三つは条件です。これが一つ欠けても本当のものは生まれません。と私は思うです。昨日朝の御祈念の後に、桜井先生達ご夫婦が二十日の日に熊谷さんの所の共励会、吉井地区の共励会、今月からまあ言うならば本式の共励会、合楽教会の共励機関としての、言うなら地区的共励と言う事になります。
 ですから昼ですから、どなたか先生お出て頂いて、そして今まで例えば、信心話というてもまあお茶のみ話の様な集いでしたから、これから本当な事になって行きたいという願いが御座いました。もう本当に別に、今日は共励会だからおいで下さいというてはしなかったけれども十八名から集まった。しかもそれが大変有難い。上野先生を中心にして共励がなされて、もうそれぞれにおかげを頂いておられる事を、皆んなお参りになってからお届けなさったが。
 その中に桜井先生達夫婦もお参りされて、それから帰りに安東さんの所に寄られて、それから丁度そうしとる内にご主人が帰ってみえたり、又は娘婿である所の嘉朗さんが来たりしたので、もう思わず信心話をさせて頂いとったら、もうバスがなくなってとうとうあちらのご主人から送って頂きました。と言う様なお話でしたが。そのお話の中に最近感じます事は、特に安東さんのお宅、熊谷さんのお宅もうおかげを受けられている雰囲気、最近親先生の仰る極楽ムードというか。
 ああこういうのが極楽というのであろうこういう家族が、家庭が極楽というのであろうか。最近共励会宅祭り等に参りまして、確かに神様を麗々しく。合楽の神様をお祭りしてお祀りされてあるという家は、皆んなその極楽の条件が足ろうておるという意味の事を言われる。私はそれを改めて考えてみてですね、確かにそうだな合楽の一つの小形の様ではあるけれどもです。第一私は、本当の神様の願いというか、私共の願いでもある訳ですけれどもまず衣・食・住にね。
 不自由していないというなら幸福の条件がある意味では揃うたんです。問題は中に住む者が「あー極楽」という有難い心を開いているか、開いていないかですよ。してみると、合楽で極楽のおかげを頂いている人は、実は沢山いるけれども、中に住んでいる人間の心がまだ有難うなっていないと言う事になる。いわゆるまだまだ解っていない。まだまだおかげをおかげと感じていないと言う事になる訳です。
 昨日の御理解を頂きまして足ろうたおかげ、月火水木金土日と言う是が足ろうた所に極楽の世界があると。それが段々に一つ足ろうて極楽的おかげに進んでいかねばらん。今日の私はこの出産に対する三ヶ条のみ教えと云う物は、その本当の意味において「あぁ是が極楽というのだろうか」と思うて極楽を実感出来れる極楽的要素と言うか条件を足ろうておっても極楽と感じきっていなかったらねそれは極楽じゃないですよ。例えば信心のない人の家にでも、健康でもあるそりゃあ立派な、お家にも住んでおられる。
 お金はいくらあるじゃ解らん、もう立派に極楽の条件と云う物は揃うておる。けれども中に住んでおる人達の心と心がです、拝み合える様な有難い心でないならば、それは極楽じゃない。条件に足ろうておりながら、それを極楽にしきらんと言う事は、本当に惜しい事であり残念な事だと思うですね。これ程しのおかげを頂きながら、おかげをおかげと実感しきらんで、もう何に不足があろうか、何に言う事がないという程しの心を開く事なんです。そこでです。
 私は今日は今日の三ヶ条を自分達の信心の上に頂いて行かなければならんが、この三つが出来たらです。ここ信心に。私は本当に極楽を実感する事があり、日に皆さん何回位有難いと思うですか?。その時に極楽ですよ。もう日に何回も何回も本当にまあ言うならばこれが極楽というであろうかと言う様な心の状態と言う物がです。いろんな事に当る度に見る聞く、そういう中に極楽を感じさせて貰うて神恩奉謝の心に愈々進んで行く、つのって行くと言う事。
 「子を産むはわが力で産むと思うな 皆親神の恵ところなのだ」。あなた方の信心の中にね、自分の我を出して自分が力んで、私がと言うこの我がなかったら、まず極楽ですね。俺が私がという私の力でと、そこに要らぬ力がいる訳です。「懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ」。これがまた大事です。この三ヶ条の中でこれが一つ出来とらんと他の事はほんなもんじゃない事になるです実際は。信心の帯をぴしゃっと、真の帯がしてあってです。力みがない。この信心が出来ておらずにです。
 もう神様のおかげを頂かねば出来る事はないのですから。もう力みません。と言う様な事ではほんなもんじゃないでしょうか。そりゃ余りもの信心であって。言うならば、ある意味では横着です。「出産の時よかりものによかるより 神に心を任せてまかせよかれよ」。と、私共が誰に頼り誰に頼られている事はないだろうか。少しばかりの財産に頼っている事はないだろうか。もうこの心があったら極楽行きは出来んです。
 成程これ程しにいうならば極楽の条件という。例えば衣・食・住なら衣・食・住の上におかげを頂いておりながら極楽を感じえないのはです、まあだ神に心を任せていないからだ。と言う事になるのです。「神に心まかせよかれよ」。よかりものと云う事は、寄りかかり物と言う事ですよね。子供によりかかっとりゃせんか、主人によりかかっとりゃせんか、家内によりかかっとりゃせんか、神様以外のものによりかかっている物はないか。軽く見れとか馬鹿にすると言う事では決してない。
 家の主人はもう働きがないから頼っとらんという意味じゃないです。お互いにそれはそれとして、尊重しながらです、実際は頼りになるものは何もないのだと悟った時。金でもなければ、物でもない。息子でもなければ主人でもないと。そこにね、どの様な場合であっても不平不足のない心の状態が生まれておる。まずやはり、信心の帯をさせてもらう。真の帯をさせてもらう。そして自分の力み、いうならば我力ということがですが、取れた時、そしてすがるというものは、神様以外にすがる。
 頼る方はないんだと解かった時、そしてそれに衣・食・住の条件が足ろうた時に、私は本当に極楽と感じれるという信心の有難さをしみじみ感じると言う事だと思うのです。私はそういう神様の願いである所の氏子信心しておかげを受けてくれよと、極楽世界と思われる様な世界に住んでくれよと、そういう例えば願いが掛けられておるその願いを私共がまず自分の頂いておるおかげをおかげとまず解る事。そして、今ここに三つの出産に付いての三ヶ条を申しました様に、我力を取る。真の帯をする。
 人にものによかりものと云う物を神様一つにしたとき、そういう心の状態のとき、愈々極楽の条件が足ろうて来る事になる。そこからです。いわゆる真の意味での極楽、いうならば貧乏のない世界、病気のない世界、争いのない世界という、言うならば極楽の世界が開けて来るのです。極楽の条件、衣・食・住という、これが足ろうとるにも拘らずです。喜びが解らんと、有難い勿体無いが解らんとおかげをおかげと実感しきってないからだ。それは何故かというと。
 まあだ我力があり、真の帯が出来とらんのであり、よかりものを神様一本にせずに、いろんな物やら人やらによかっておるから、頼っておるからだと言う事になるのです。だからその三つのここの、言わば極楽の条件である所の在り方がです。段々信心によってです。力まんで済む、我を取った生き方、いよいよ真の帯をさしてもらう信心を喜ばしてもらう。そして、頼り、すがると言うよかりものと言う物をです。
 とり外してしもうた時にただ神様一心にお縋りする、頼りするという生き方が出来る時、これに応えて頂けれるいうならば、おかげの頂く為の条件が足ろう訳ですから。まず貧乏がなくなるでしょう。金に不自由する事がない。金と言う事は金、物と昨日の御理解というと金曜日の金の字ですね。是に不自由する事がない次に病気をすると言う事がない。隅田先生じゃないですけれども、「先生あなたは、病気をされた時に、医者やら薬に掛かられますか。」
 と言われて、文男さんが質問した時に、文男さんの顔をじろじろ見ながら言われた。「金光様の信心をしよって、病気するですか。」と、金光様の信心を本当に頂いたら、病気はせんのだと。人間生身をもちっとルカら、何処にお粗末後無礼があるか解らんから、腹が痛かったり胃が痛んだり、また風邪をひいたりする事はありましょうけれども、それを一つも病気と思わないと言う事なのです。神様のご都合と思う事です。私共はっきり糖尿病という。けれども私はいっちょも糖尿病と思っていない。
 皆さんご承知の通り糖尿病と言う名の神様のご都合だと思うとります。だからもう病気ではないでしょうが。病気のない世界とはそういう考え方が出来る様になると言う事。昨日、久富先生がそれを言うておられて、「今日は丁度親先生、あなたが言いなさるのと同じ事をテレビで放送がありよりましたよ。」と、何か大変有名なお医者さんです。日本人はあまりに薬を飲み過ぎる。注射を打ち過ぎる。医者が今国民年金ですか、ああいうやつでもう医者に簡単にかかられる。
 特に年寄りの方達はただで掛かれますから、もう打たんでよか注射を打ちにわざわざ薬もらいに行って。もう薬害じゃなくて薬の毒です。最近、妙な子供たちに足が湾曲する病気が沢山流行りよる。その原因が解からなかったが、いわゆる注射の毒だというのです。外国の、ヨーロッパ・アメリカの場合ではね、もう医者に行ってもね、診て、少し熱がある位なら、家で薬やら飲まずに、ただ養生せろと言うだけだそうです。もう注射なんか滅多な事では打たんそうです。
 第一この大腿部に打つ注射なんかは絶対にいかんと言う事です。お医者さんが言うとるそうです。今日はもう親先生の言われるのと同じ事をお医者さんが言いよんなさいましたが、ああいう人に本当に全国を廻って、皆に徹底してもらうたがよいと言うておられましたかね。それを病気と思いながらそうせんならんとじゃ私共は病気と思うとらんから、いっちょん養生せんでしょうが。薬も飲まなければ、糖尿病には甘いものはいかん、辛いものはいかんと言うけれども、有難く頂けれるのです。
 だからまず第一にですね、もう医者にだん掛からんと決めてしまわねばいかんです。もう絶対薬はね毒です。もう害じゃないです毒ですよ。だから皆さんの場合ですと、合楽になら何十年の信心のおかげを頂いとる人達がです。何十年まあだ薬一服頂かない。薬箱は捨ててしもうたと言う人が沢山ありますよね。合楽にはだから本当な事が解って本当の事を行じておられる訳です。もうそこには、病気はないと言う事になるです。第一、貧乏がなくなる。病気がなくなる。第一争いがなくなる。
 そういう意味で五つの願いと言った様な、願いと言った様な物が、如何に神様の願いに応える。言うなら私共、極楽行きの為の願い祈りと言う事か解りますね。お互いが極楽の条件を頂きながら極楽を感じきっていないと言う事、そこで極楽を感じさせて頂く一つの修業としてえす、今日の三つの修業を自分のものにして行くというと、我力をとると言う事、本気で何時も信心の帯をちゃんとしてあると言う事、頼っていない、誰にもすがっていない、金やら物やらにも頼らない。と言う様な生き方が出来た時です。
 そういう修業が出来た時に、それの条件の様にして頂くのが貧乏のない世界、病気のない世界、争いのない世界が許される。そこに至った時に初めて私は本当の極楽だと。合楽の場合、桜井先生じゃないけれども、あちらこちら信心を熱心にされるお宅を回らせて頂いて、本当に確かに極楽世界が信者さんの家庭の中に頂けておられると言う事、小形ながらもこれを育てていけば、極楽と思われる様なおかげを皆さん頂いておられると言う事、改めてお互い自分の家庭を思うて見なければいけません。
 おかげをおかげと実感させてもらう所から有難いお礼の心と云う物が生まれます。そのお礼心を持ってです。力まんで済む、頼らんで済むおかげを頂かしてもらう。信心の帯をしっかり締めてその喜びを落とさん様にして行く。そこからその条件の様に頂くのが、病気のない世界貧乏のない世界、争いのない世界というのが所謂生まれて来るのです。愈々いわば、水と火が一緒に調和の取れた生き方というそれと土の信心で決めて行こうと言うのが昨日の御理解です。
 その土の信心の中に今日の三つの出産の時のこれはみ教えですけれども、出産と言う事は人間が生まれると言う事でなくて、いわゆる、おかげが生まれる、極楽が生まれて来る。現れて来る。そういうおかげを頂くためにもこの三つの信心が私共の上にできたらいうなら幸福の条件である所の、お互いが願って止まない所の貧乏のない世界、争いのない世界、病気のない世界に進む事が出来ると思うです。
   どうぞ。